ミルコの趣味雑談

趣味を持つ事は大事です。始め方や、道具を揃えることなど雑談です。

格闘技と武道と趣味vol1~少年期 出会い~

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まずはサッカー

《武道との出会いは一直せんでは無かった、まずはサッカー》

ちょっと判りにくいテーマだが、格闘技の中に武道は含まれるが、武道自体が格闘技の目的と一致するとは限らない。

格闘技は文字通り闘う技で、武道は武の道である。つまり、技と道の違いと言っていいかもしれない。剣術と剣道、柔術と柔道との違いか。

皆最初に技術習得を目指すが、それだけではシンドクてついて行けなくなる。その為に技術は道に昇華(進化)してゆくものなのだ。

《武道とスポーツの岐路》

武道との出会いは5つ年上の兄が柔道をしていた事だった。しかし、生まれた静岡清水ではサッカー王国と言われる程、町を挙げてサッカー教育に熱心な町です。小学校に上がるとサッカーボールを皆に一個づつ持たせて、学校に来ると始業の前にドリブルしながら校庭のトラックを数周走り回る。昼休みと言えば、競ってグランドにでて、自然と2グループに分かれて紅白戦を休み時間中一杯までする。とにかく楽しかったから疑問も感じず、ただサッカーをしていた。だから、クラブ活動はサッカーか陸上以外は文化系位の印象で、サッカー部は厳しいイメージと優秀な連中の集まりと言う事で関わることは無かった。

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巨人の星182話

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漫画の影響もあった。そう「巨人の星」、当時は野球がメインスポーツだったが、清水は「赤い血のイレブン」だった。そこに日曜夜7時の「柔道一直線」が割り込んできた。個人競技に新鮮さがあった。小学校の頃の遊びと言えば男の子はチャンバラや人形遊びならGIジョーと決まっていた。どれも個人プレーだから、「強くなる」事には憧れがあった。手っ取り早く兄が通う町の警察道場について行く様になった。学区が違っていたので、知っている子供はいなかった。小学生で165㎝程あり当時では目立つ方だったが、これと言って運動神経が良かったわけでは無く、愛想も良くない方だったので、練習仲間はできなかった。これが格闘技との出会いであった。しかし、道着が重く、汗をかくと余計に重く、相手と密着すると死ぬほど暑苦しい。汗だくだくで、疲れ果てた割には爽快感は無かった。足掛け2年ほど通った様な気がするが、いつの間にか行かなくなった。

《格闘技ブーム》

この頃、漫画にも格闘技ブームが来ていた。「空手バカ一代」「あしたのジョー」が連載中だったと記憶している。中学生になり、同じ小学校区での学校では無かった為、知らない顔ばかりであったが、喋りが上手かったので、仲間もでき、一年から生徒会の事務局に入ることになり、目立つ存在だった。中二病真っ只中で、「格闘技」は色んな意味で魅力的な世界であった。印象強いと言う意味では金曜夜8時のゴールデンタイムに中継したプロレスにハマっていた時代で、「闘う姿」にドラマの如く酔いしれてた。

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燃えよドラゴン

そんな時に、背中を思いっきり押す衝撃的な神が現れる。そう「ブルース・リー」「燃えよドラゴン」には完全に虜にされた。ロードショーで9回見た。鍛え抜かれた肉体と、超人的動き、強さ、スピード、そして、初めて見る刀以外の武具、ヌンチャク・トンファーが多感な少年の心を鷲掴みにした。

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日本伝正統少林寺拳法

そんな折、クラスのちょっと太めの友人が「少林寺拳法」を習いに行くと言う話を聞いた。目立たない子でなんで?と言った感じだったが、あの「燃えよドラゴン」でブルースリーが武道を修行した寺の名と同名で、そんなものを習えるところがあるんだったら、これはチャンスだとなり、どこで、週何回、月謝は幾らか等根ほり葉ほり聞き、早速一緒に見学に行った。

《偶然と必然の出会い》

当時の少林寺拳法は、まだ創始者宗道臣が健在で、風貌も坊主で髭をたくわえ、如何にも高僧の風を呈していた。

全国に支部道場(道院と呼んでました)を広げている時期で、漫画で極真が派手に宣伝しているのとは違い、地味だ着実に門下生を増やしており、香川県に本部道院があたが、静岡にも数人の高弟が派遣されていた。

見学に行った支部道院は保育園の教室を使用し、床はフローリングの板の間だった。専用の道場があるかと思っていたが、こう言うところを利用するんだと感心した。

後に知ることになるが、自前の道場を持っている道院数は実は少なく、大体が、小学校やこうした幼稚園、公民館などを時間借りして道場を開いているのが殆どだった。そういう意味では拠点を作りやすく、柔道・剣道・弓道に次ぐ数になったと聞く、社会人になり、自分が道場を開く際もそれを参考に場所を探した。また、少林寺拳法は2015年2月 には公益財団法人 日本体育協会に加盟するまでに認知された。つまり国体に参加できるようになり、メジャースポーツの仲間入りをした。

《手の届くところにある武道》

通う事になった道場は週二回学校帰りに通える距離だった。月謝も当時千円か二千円位。(映画のロードショウで千円前後だった)小遣いを我慢すれば払える金額だったので、あとは必要な道具も道着以外は当面不要だった。柔道着と違い、道着は幌生地で専用会社が供給しており、軽い割には丈夫だった。柔道着の厚さが嫌だったので好感を覚えた。(しかし汗をかいて放置するとバリバリの硬さになり最悪だったが後の祭り)

家には、空手や、こういった流行りの武道には多少偏見があった頃なので、再度柔道を始めると嘘をついて通い始める事となった。

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中国 嵩山少林寺

通い始めると、当時の少林寺拳法はとても合理的な教育体系であった。練習を「剛法」と「柔法」とに分け、「剛法」は突き蹴り、「柔法」立ち技中心の投げ技、極め技で体系化しており、中学校生だ4~5級からスタートしていた。

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少林寺拳法の面白かったところは、宗教法人と社団法人の二面を持っており、公に活動する時は社団法人の顔を使い、道場での指導には宗教法人としての顔を持っていたことで、道場訓は良くあるが、ここでは宗教の教えの様に、「誓句」とか「道訓」とか言う練習前のお題目を皆で唱和していた。

指導の合間に面白可笑しく、宗道臣の戦争体験からの武勇伝や、少林寺拳法の優れた技術や、健全な青少年育成という理念を中国武道の歴史と絡み合わせて教えて行くのだが、結構これには騙された。(当時は共感していた)

つまり、武術を目指さず、最初から武道を目指す。もっと言えば、仏道を説くには、時に武術を餌にするというのが開祖の教えだと言い切るのだから、最強の空手を標榜する極真とは根本的に競合しないのだ。

少林寺拳法は格闘技を目指さなかった》

少林寺拳法では「拳禅一如」と言って、心身の鍛錬は一体のものであると言い強さを前面には出さなかった。だから老若男女誰でもできると裾野を広げた。結局中学校高学年から始めた少林寺拳法は、受験の時期の中断はあるものの、高校・大学・社会人として関り合う事になった。

今振り返っても、良い出会いであったし、それなりに満足している。多感な時期であったからこそ、強さに憧れて武道に魅力を感じたが、他の武道と一線を画すことのできる思想性は語り合う仲間形成することになり、学校とも違う時間ができた。

この後いろいろと話が込み入って来て、結局少林寺拳法を離れ、たまたま韓国のテッコンドーを習う事になり、はたまた、総合格闘技にへと進化して行く事になるが、それはまた次の機会で語る事とする。

《偶然の中の必然》

人生のそれぞれの成長の時期は繰り返しが利かない。人それぞれで、習い事や勉強、芸術と費やすものが違うと思うが、世の流れに乗って、心身の成長の丁度良いタイミングで少林寺拳法に出会えた事は偶然の中の必然だったと思う。知らず知らずに手繰り寄せた運命として少林寺拳法を始めたのだろう。

これが良しにつけ、悪しきにつけ人生の岐路で判断する指針になった。