ミルコの趣味雑談

趣味を持つ事は大事です。始め方や、道具を揃えることなど雑談です。

格闘技と武道と趣味vol17~趣味の開花、陶芸の奥の深さにハマった~

 

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《芸術と工芸》

鑑賞する音楽や美術に興味を持つようになると、自分でもできないかと思ってしまう。当然できるものとできないもの、ハウツーも含め情報量が多く入りやすいものとどうやったらできるか判らないものも多い。

陶芸に関して工芸に目標を定めたことを描いたが、ちょっと気になったのが、工芸品と芸術の違いだった。趣味の王様と言われる陶芸は、技量と、時間と、費用が掛かるので、確かに趣味としては王様かもしれない。しかし、陶芸は芸術家?と思ってしまう。

日常使うものもあれば、明らかに鑑賞用の物もある。鑑賞ものは芸術で、使うものは工芸なのかと割り切れるかもしれない。工芸には力量や技量が必要とされるが、芸術は必ずしもそうではないので、表現者として具現化したものは物はなんであれ、芸術で、そうでない、陶器は工芸なのかもしれない。

陶芸との本格的な出会いが、東京に赴任した時の同僚に、福岡で陶芸家として創作窯を開いている義兄がいてその方を訪問したことを書いた。

その時のことを少し書き足すと、その方は広島出身との事だったが、福岡繋がりで、話が盛り上がり、帰省の際に尋ねてみようとなった。当時は伝統窯も創作窯をよくわからず、5月の連休に唐津では有田陶器市で有名なので、陶芸家とはどんなものかと興味程度であった。

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事前に連絡をお願いして、作品を見たいと言う事で、伺ったが、山の中に作陶棟を作り窯も手製の登り窯とガス窯を持たれていた。とても都会的なハイセンスな作風で、以前は大分県の日田で小鹿田焼窯で修業をしたそうである。その後小石原にもいたそうで、特徴的な飛びカンナの技法を用いた作品も多かった。

若い頃は名古屋に居てサラリーマンをしていたそうだが、広島の陶芸技術館で陶芸芸術に魅了されて陶芸家を目指すようになったと言う。ちなみに奥さんはその美術館の学芸員だったそうだ。だから、会話も知的で、知人にもサラリーマン時代の同僚で、今は会社の役員とかも多いらしいく、転勤したてだった私には、サラリーマンとしての悩みとか、カメラやPCに関しても話が噛み合い、とても面白い出会いであった。

陶芸に興味があると話をすると話は早く、では試しに作ってみたらと誘われ、言われるままに作らせて貰った。指導をして貰う中で、お客さんでは無いので、陶芸教室など流行っているものの、作る事、自分の陶器を目指す事に拘りたいなどいろいろ陶芸哲学を教えてくれた。

その時は”紐づくり”と言う、ひも状に陶土を練り、円柱状に積み上げ、隙間を潰して花瓶を作った。半乾燥になった翌日に化粧土と言う色のついた粘土液で刷毛目の下絵をして、本焼きをお願いする事にした。半年後にまた長期休暇の帰省の際に、また伺う事とした。前回の本焼きした花瓶を頂き、結構感動した。

今度はろくろを使った本格的な成形をさせて貰った。その前に、粘土(土)の均一の粒状にする為、”練り”と言う揉みほぐしをする。これと乾燥状態が次第で成形の善し悪しが決まる。業界では、”ろくろ3年練り7年”と言うらしく、体験教室でよくやるろくろ成形以上に、ろくろに乗せる粘土の練り次第で作品の成否が決まっていまうのだ。ろくろの場合、半乾燥状態でろくろので作ったものの、底部を削る。この削りは結構楽しい。しかし、これを見するとカタチにならないので注意が必要である。

削りが終わると、成形作業は終了で、自然乾燥させる。ここまで最低2日は掛る。削れる状態までの硬さになるまで、日陰で夏であれば、朝ろくろで成形(ろくろ引き)して夕方には削れる硬さになるが、冬だと翌日まで掛る。乾きすぎるとカンナが弾かれてしまうので、綺麗な形にならなくなる。陶芸の腕の善し悪しはテクニックはもちろんだが、この乾燥具合、練の善し悪しの方が影響が大きいと言える。

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こんな訪問も2年ほど続け、計4~5回は通ったが、結局釉掛けと本焼きをお願いすることになるので、作陶作業の半分しか出来ない。お世話になった陶芸家の方に言わせると、遊びで作られるのは良いが、多く作れば、本焼きスペースを取られるので、どこかで区切りをつけるべきではないかと言われた。つまり、遊びであれば、勝手の判ったと思うので、この位にして、本気でするのであれば、窯まで持たないと作陶とは言えないが、窯を持ては沢山陶器ができるので、陶器をどうするの考えておかないといけない。(「窯に責任を持つ」と言う言い方をしてました。)

と言われても…と悩んが、早々来れる訳では無いので、窯を持つ方向で何をしたら良いか聞くと、いろいろと教えてくれた。例えばろくろ成形する際のカンナ(これは売っている)、ヘラ(これは売りもはあまり無い)などで買えないものは型紙を取らせてもらい、自作することとしとし、幾つかは頂いた。また、削りの際に置く台とする”シッタ”(円錐状の陶器)は自作するしかないが、作れる程技量がないので、使ってないものを頂くこととした。あと未経験だが、本焼きに前の釉の調合を教えて貰った。これは陶芸家それぞれのレシピがあるらしく、特別教えるとの事だったが、結局作れず、陶芸用品を扱っているところを探して、北九州の三福陶芸と言う会社の透明釉とか、半濁釉とかを、粘土(土)と共に買う事にした。土は最初ちょっと赤身のあるオリジナル土の”大隈三号”を使っていたが、これに半磁器土ミックするすると丁度良い硬さになり、焼き上がりが、磁器の様にパール色で綺麗なため、今はこの様に練の段階でミックスするようにした。

お世話になった陶芸家さんとは、暫くメール等でやり取りして、上手く行かない時のアドバイスを頂いた。

しかしそもそも、教える事を生業としていないので、作品の善し悪しの品評もあまり好きではないらしく、自分が気に入ればそれで良いと言う考え方だった。

ただ、この方の陶芸に対する考え方だと思うが、趣味の陶芸に関しこの様に評していた。

趣味で作る陶器は一番高い。(当然贅沢な道具や材料をたっぷりな時間を掛けて、失敗作ばかり作る訳なので、出来上がり一つに対するコストは高い)一般の陶芸や工芸家はプロのレベル技量で、必要最低限の時間と材料、道具で数を作るからコストが安くなる。

一般に陶器が高いのは人件費な訳で、作り手の収入を作る作品数(売れる作品数)で割り算すれば、自ずと一個の単価が出る。

月収30万欲しければ、100個売れるものを3,000円以上で売れば良いと言う理屈だ。ただ、食器とかは、100円ショップで買える時代に、3,000円とかで売れる価値を買い手側が感じて貰うためにどういうものを作るかに尽きると言う話をされた。

確かにその通りで、とても厳しい世界で、これを生業とすると為には、相当な技量と世間に認めて貰う努力、PR活動、販売機会を見つけなければならない。

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そう言う目線でみるから、陶芸家からすると趣味で陶芸をしたい人と付き合うのは疲れるのだろう。とても生業には出来ない私には付き合う距離感が掴めず、東京から戻って来て連絡を取って以来、既に20年以上になるが、連絡することが無くなった。

 陶芸は今でも続けていて、およそ30年にもなる。ただ、年数は正味、一日何時間ろくろの前に座り、何年間練って来たかが物差しなので、そういう意味では3分の1位かと思う。

それでも、今はそれなりに形にはなり、ネットのフリマに出しているが、ボチボチ売れる。お恥ずかしいレベルだが趣味と実益と言ったところだ。

私にとって陶芸は集中できる雑念なしで、指から伝わる微妙な土の抵抗をコントロールしながら、イメージのカタチにしたり、削ったりする時間であり、出来上がりの善し悪しと言うより、精神的なバランスを保つ大事な時間と空間なのだ。

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フリマの作品

 

格闘技と武道と趣味vol16~趣味の多様化絵・音楽・陶芸~

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東京に出てきてから名画を鑑賞しに美術館通いしたり、N響フレンズになってN響ホールに定期的にコンサートを聴きに行ったりしたと首都圏でしか楽しめない文化的時間を費やしたと前回述べたが、今度は一生の趣味となる油絵を実際に描く事、自前で土を購入して練って、轆轤(ろくろ)引きして、焼成するまで一貫して陶器を作ることに至ったことについて語りたい。

陶芸に目覚めたのと武道の道につき進むのは、私の中では全く矛盾していなかったし、どちらが負荷になる事も無かった。仕事とプライベートのバランスの話をしたが、仕事その時その時でどれかを優先して来た訳だが、福岡に居る頃から仕事に関して言えば、食事もそこそこに徹夜で資料を作成したりすることも珍しくなかった。

だから、仕事に対する個人評価は高かった。道場に関しても体調不良で休むことも無かった。その合間に陶芸や油絵に没頭するのだが、一過性の興味は留まらずのめり込んで行った。

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ボブの絵画教室

油絵はたまたま、BS放送の「BOBの絵画教室」と言う海外教養番組を見たとき、小さいときの思い出が蘇ったことが切っ掛けだった。

この番組は30分程の番組内で、一枚の油絵を完成させると言うもので、使う道具もペイントナイフと2インチの刷毛筆と数種類の絵具(これはBOBが愛用する色で、バンダイキブラウン、クリムソンレーキ、ジンクホワイト、プルシャンブルー、イエローオーカー、ブライトレッドと数種類だけで仕上げるのだ。

下塗りも即乾性のジェッソを使って、下地処理して進める工夫もある。もしかして、このまま真似れば、油絵描けちゃうのではと信じ込んでしまった。

そして小学校の頃の同級生で、絵画教室に通っていた子がコンクールに油絵を出品して賞を貰ったのだが、後でその作品を見せて貰ったとき、「どこがいいの?」と思い、油絵ってどこが普通の水彩画と技術的に違うんだろう素朴に感じてモヤモヤしていたことが急に思い出され、早速画材屋に行って、ボブの絵画教室の初心者用のスタートセットを探し出して買ってきた。

そしてビデオに撮った録画を何度も見ながら、その通りに描いてみた。すると、思った以上にしっかりしたバランスの取れた絵が掛けてしまったのだ。

それからはこのシリーズのビデオを元に幾つも描いて、その手法や、イメージする色を作るのに混色する度合いや、薄め方を覚え、次に、模写に取り組んだ。実際の絵を復元することで、混色したり薄めたりして似たような絵が出来る事を経験した。

そうすると実際に描きたい人物や動物のモチーフの写真を絵に落とす手順や色の載せ方、筆の使い方が自然と判って来るのだ。

ノウハウものを読めば、必ずデッサンから入り、静物画を実物を見ながら書き続ける様な事が書かれているが、これは私にとっては遠回り感じてどうも馴染まなかったのである。

どんなに描かない時でも年に4回はテーマを決めて描いた。多いときは月に2枚書くこともあったが、油は一気に描き上げるのでなく、フェーズを決めて時間を掛けて乾かしながら、色を乗せていくのが、せっかちな自分には合わない様だったが、何度でもやり直しが利く所が逆に、そっそかしい自分の性格には納得できるまで出来るので合っていた。

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陶芸は小さい頃の泥んこ遊びを思い出す土との触れ合いがとても楽しい。作ろうと思えば人形から食器、装飾品まで好きな形に出来るのが魅力だ。手先が器用であった為、子供が喜ぶアニメや着ぐるみを紙粘土で作ってやった時に、彩色して良い物が出来ても、結局経年で劣化してしまうが、陶器は壊さなければ一生残るものである。

工芸品でもあり、芸術品でもあるので、様々な楽しみ方があるのだ。私は芸術品と言うより食器や器の様な工芸品を作りたかった。結局陶芸の原始形である土器はそもそも、器として作り始めた訳で、感性を問われる芸術品より生活に密着した使い易い食器や器を技を磨いて作りたかった。

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その為、価格の安い土をベースに磁器に近い高温で焼成して、白く薄くて丈夫な器を目指した。手で捏ねて作る”手び練り”も良いが、大量生産で同じサイズの物を短時間で多く作れる”ろくろ”引きが基本と考えている。その為の電動ろくろはシンポ製を選んだ、また自宅で焼くためには100Vで1200度以上まで焼ける電気窯を探した。

いろいろと探した結果100V二回線で二つのコンセントから電力を供給するタイプの極楽窯の一番大きいプロ135を購入した。30年程前で40万以上したが、いまだに仮焼(800度)・本焼(1225度)が出来る逸品である。

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今は色々ノウハウ本やビデオがあるが、当時はなかなか見つからず、細かい所作まで含め、実際の窯元に行くしかなかったが、運よく会社の同僚の親戚が福岡県の鞍手町と言うところで創作窯を開いていたので、弟子は取らないとは言われたが、見学と称して押しかけた。結局年に盆と正月の帰省の時には通って3年程いろいろと教えて貰った。

結局そんな頻度で本格的な陶芸が出来るレベルになる訳では無く、必要道具や材料を教えて貰い、少しずつ自宅で出来るレベルで買い集めたり、道具を自前で作ったりして、轆轤を買い、結局最終的に完成させる窯を買うまでには2年ほど掛った。

窯を買うと決めた時に、その陶芸家の方に言われたのは「窯に責任を持たないといけないよ」と言う事で、要は出来たものは捨てるにしても不燃物で処分も困る。売るには使えるしっかりしたものを作らなければならない。つまりは、基本から始めてしっかり売れるレベルになるまで”使えるもの”として使って貰えるまでやらないといけないと言う事だった。

購入して作り始めてすぐに言っている意味は判った。一回の焼成でコーヒーカップであれば14~16個位出来るが、家で使ったり、知り合いにあげても、余るのだ、上手になる為に数を作れば作るほど作品は増えるのだ。

どこかの店で売って貰えば良いが、そんな知り合いも無く、幸いにして、祝い事や、近しい友達や知人にプレゼントすると喜ばれたが、今はネットのフリマサイトや自作品を売り買いするアプリサイトで売ることで何とか消化している。

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使いやすい形と言う事で”マグカップ”や”盛皿”には自分なりのカタチが出来、買った方に喜ばれているが、これも何をどこまで作るかを今後も少しずつ変化を加えて行きたい。

これら全て趣味や武道が今の自分をバランスよく刺激し、一日一日を充実させていると感じるので、どこかでピリオドと言う事はないだろう。

格闘技と武道と趣味vol15~趣味への目覚め~

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《趣味への目覚め》

転職前の仕事の話は、サラリーマンとしてのレールに載った状態でそれなりに順調だった。家庭は子供も幼稚園に通い、近所付き合いも出来てるようだった。平塚に住んだが、選んだ南海岸通りは昔からの商店街と湘南海岸沿いで、ほのぼのとした田舎を感じるところであるが、駅まで歩いて10分程度で途中に河野洋平邸がある良いところだった。戦後この辺りは結核の保養所になっていたと言うから、のんびりした風情がよく判る。

半年程して住まいも落ち着き、時間に追われる状態から、上手く調整できる余裕が出た頃、横浜に出て来た大学時代にバイトで知り合った武蔵野美術大学の人が油絵の見方を教えてくれたことを思い出した。彼女は絵の見方を教えてくれた。どんな絵が良い絵なのかは本人の感性次第だが、見るべきところを知ることは新鮮で印象に残っていた。

絵の売買価格は絵の大きさに比例するので、大作と言われるものは大体かなり大きく、高い。それだけ全体の構成から、描くのに画力が必要だと言う事だろう。余談だが、オークションなどでは、家に飾る丁度良いサイズF10~12号以下が良く売れるので、F50 号以上とかになると、買い手も少なく、意外と安く買える。飾れるスペースがあればお宝として買ってみたら良いと思う。

《絵の鑑賞》

その絵を理解するには、時代背景や、画題、思想などによっても価値が付加されるからその画家の前後の作品を鑑賞するのが大いに役に立つ。

また、絵は光の加減で発色やイメージが変わるので、実際の絵を見ないと細部の描写や、全体の画力も伝わらないから、名作は実際に見る事でした本当の良さは伝わらない。

これも余談だが、POPアートとしてラッセンやヒロヤマガタのシルクスクリーン版画の展示販売会場で、朝の光、日中の光、夕方、室内光で見え方が違うので、ポスターと版画では、基本的に違うと説明されるが、確かにその通りだ。ちょっと高くても家に飾って、何時でも違った感じで同じ絵が楽しめ生活空間にアクセントができる。都会ではこのちょっとした豊かさが求められるから、よく売れるんだろう。

東京は有名な画家の展覧会が頻繁にある。施設も東京国立近代美術館東京都美術館サントリー美術館東京都現代美術館等いくらでも美術館はあるし、百貨店ではメイン商材だから、四六時中展示即売会などもしている。(ちなみに、美術館の数は全国NO.2の88館、なんと全国NO.1は長野県)

西洋美術では、宗教色の強い中世美術から、フランス革命以降の「新古典主義」、「ロマン主義」、から「写実主義」、「自然派」が画家の展示会はよく開催される。知られるところでは、ダヴィッド、アングル、グロや写実・自然派ではドーミエ・ミレ・クールベ・ミレー・ルソーとかだが、彼らも前時代の様々な新潮流の中で新たな主義を技法に発展させている。そこに歴史がある。展覧会の案内は電車の中刷りや駅の壁にポスターをよく目にするので、品川から山手線内で開催している。その気があれば、ちょこちょこ行って見れるチャンスがあるので、首都圏に住むのであれば、このような恵まれた環境を活用すべきと思う。

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《美術から音楽に》

美術に興味を持ちだすと、時代背景的にこれらの芸術家を刺激したクラッシックの巨匠たちにも興味が出てくる。絵も音楽も実はお互いに刺激しあった一体のものであった。首都圏では17世紀にのバロック音楽から1750年頃からの古典派音楽、続くロマン派音楽のファンが多いので、バッハ、ハイドンモーツァルトベートーヴェン等のコンサート等毎週どこかで開催されている。地方ではこの数は多さは望めない。

考えてみれば、音楽家首都圏に多く住んでいる。楽団も多いし、ステージも多く、開催すれば、それなりに集客が見込まれる人口が集中している首都圏はソリストにとっても楽団にとっても、営業効率の良い場所だから、都市部での活動は当然と言える。しかも、音楽産業はどのジャンル、どの業務においてもソリストを必要とする。その為、掛け持ちもできるし、移動距離も短く時間・経費の軽減には最適である。だから、地方より、首都圏に居た方が収入が安定化し、よりよい生活ができると言う訳だ。

聴きに行きたいファンにもメリットがある。つまり、数が多くなるから、ファン層を広げ、より低価格でコンサートやイベントを行う様になる。ファンクラブも多く、囲い込みに企画にもメリットが多い。

私も、N響フレンドと言うNHK交響楽団のファンクラブに入り、月5000円の会員費用で、月に3回NHKホールで行われるコンサートに無料で入場できる会員になった。N響と言えば日本を代表する楽団で、公演も海外の有名指揮者を招くので、かなり質が高くコスパは断然良い。地方に居ては得られないメリットだ。東京での8年間で様々な有名交響曲を聞き、その歴史などへの造詣も深める事ができた。

《古典音楽は洋楽だけじゃない》

日本人なのに和楽器雅楽をあまり知らないと言うのもどうしてかと思えば、小学校から教えられるのは洋楽ベースで、楽譜も西洋のドレミファソラシドであれば当然だなと判った。武道は神道に繋がる、神社へも行くことがある。そこで聞く雅楽(よく聞くのは越天楽)には懐かしい郷愁と神聖さを感じるのは私だけではないだろう。初詣の神社では越天楽はつきもので、その音色がこびりついているのかもしれない。雅楽の器楽演奏を支えるのは笛として篥(ひちりき)、笙(しょう)、弦楽器として琵琶(びわ)、龍の姿に見立てられる13絃の楽器箏(そう)、国風歌舞に用いられる6絃の楽器和琴(わごん)、リズムを司るリーダー的役割の鞨鼓(かっこ)/三ノ鼓(さんのつづみ)等があり、独特な重厚感を感じる。

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芸術の性格として、音楽は時間を共有することで楽しむ芸術なのに対して、物があることで芸術を芸術家提供する芸術家(画家や彫刻家等空間に芸術を提供してくれる)は地方在住者が多い。作り出したものが動かせるものであれば、数週間どこかで展覧会に出展したり、百貨店やオークションで売って収入を得る事が出来るからだ。音楽と違いそこにあり、時間を問わず鑑賞できることが資産としての価値も出てくる。

自然な流れとしてN響コンサートに月3回通い、自然と有名な絵画が来ると美術館によく行った。「東京には仕事しに来た」と言う覚悟とは相反するようだが、全く矛盾せず、これが東京に居る時にだけ味わえる文化だと思っていただけに時間を無駄にしたくなかった。だから無理してでも行こうと言う気があったのだと思う。その分家に居る時間は通勤時間も差し引かれ、通常で8時過ぎにたどり着けば早い方なので、イベントに行けば12時前になるので、風呂に入って寝るだけでほぼ家族との時間は無かったが、家族間に不平も無くよく生活できたのは幸いであった。

 

格闘技と武道と趣味vol14~仕事とプライベートのバランス~

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今まで綴って来た足跡はある意味、その時々で岐路に立ち、流れに任せながらも与えられたものや、その立場で出来る事を精一杯やってきた結果事を繋ぎ合わせて振り返ってきた。それには仕事や学業とプライベートの両面あり、常にそのバランスを取ってきた。

バランスと言っても、いつも五分五分と言う訳ではない。仕事や学業は他律的要素が強いので、常にロイヤリティは高くなる。何せ生きるための糧や評価を得る事がまずは最優先だからだ。

しかし、常に全力当投球と言うのは私自身の性分に合わない。忙中閑ありで、必ずプライベートを疎かにはしなかった。それは家族のイベントや世話も重視したが、仕事の次のプライムは武道であった。敢えて言えば仕事の優先スケジュールと武道のイベントや道場通いのバランスをできるだけ仕事を圧縮する形でプライベートを重視し優先した。なので会社の同僚とのアフターファイブの付き合はかなり疎かだった。その為、そう言う意味での評判は良くなかったが、継続は”力”であり、これが標準となると、そう言う見方が理解に変わり、上司の中には仕事に滞りが無く、目標が達成されている限り評価してくれる方も少なくなかった。

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仕事は好きな事と言うよりやり甲斐であったが、武道は好きでしている事なので、全く苦にはならなかった。双方がポジティブに進行している時はかなり充実していたし、寝る間を減らすとか、移動時間を惜しんで業務処理をこなす事は苦痛でも苦労でも無かった。

しかし、誰も1日24時間以上は無い訳で、そのような生活をしていた為、同年代人が楽しむゲームや遊び、娯楽や息抜きや楽しみと言うものとは甘い縁が無かった。例えば、パチンコ、麻雀、当時爆発的に流行り始めたインベーダーゲームやゲーム機等とは全く縁が無かった。することが無いから飲みに行くことも無く、目的の無い遊びはしなかった。

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仕事も武道も集中してやっていたが、面白いもので、そんな中でも興味の向く事には時間を割いた、武道以外の趣味の部分であるが、詳しくは別なときに述べたい。

私の中では一つの技や、技量を身に付けるにはそれ相当の時間と投資、努力が必要であることは必須だと思っている。私の様に不器用な者には当然だった。体や表現が想像通りに出来る様な天才は、そうでない鈍才の私にとってヒガミでは無いが、つまらないと思っている。

出来てしまうのは羨ましいが、出来るまでの達成感を味わえないのは満足感として物足りないと思うのだ。よって、出来ない事で苦労するのは苦にならない。直ぐにできない事は判っているので、到達点はかなり先に設定する。

例えば、30歳になった頃、昔から絵は好きだし、下手な方では無かったが、油絵は鑑賞するだけで、描いたことが無かった。しかし、海外教育TVシリーズで見た「ボブの絵画教室」に触発されて、油絵を始めた。

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32歳の頃に職場の同僚の義兄が福岡で創作窯を開いていると知り、帰省の際に、尋ねて行って、無理やり教えて貰い陶芸を始めた。いずれも10年後に自分なりに納得できるものが出来れば良いと思い始めた。30歳の時に長男が生まれた際にのめりこんだクラシックへの興味は、東京でN響コンサートに通う事で満たされ、一生の趣味になった。

今ではレザークラフト、トンボ玉、ピアノ、ギターと興味の対象はかなり広がった。この間4回の転職を経験し、それぞれの職場で、スキルを活かして管理職としてマネージメントや責任者としての責務を拘りを以てこなして来た事を考えると、まあ紆余曲折しながらも自分で大事にしたい事は何としても貫き通して来たと言えるだろう。

スキルとリテラシーを高める事が色んな局面を打破する源だったような気がする。これは仕事もプライベートの趣味や武道も同じであると感じる。だから似たような問題や壁にぶつかった人には、とにかく、あきらめるのでは無く、ポジティブシンキングと、たゆまざるスキルアップで何とか乗り切れるものだとお伝えしたい。

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平凡な私のこの経験は私ならではだと思うが、本当に良かったのか、幸せなことなのかは全くわからない。人は周りから評価されて初めてその価値や、善し悪しを判断することが往々にしてあると思う。

短いタスクや、業務においてはその通り出来るが、長い人生においては、その長い人生の中での良かったことや悪かったこと、成功したこと失敗したことなど、数えきれないほどある訳で、死んだ後でも誰も評価は出来ないと思っている。

強いて言えば、死ぬ間際に、人生をフラッシュバックする時、初めて自身で感じる事かと思う。しかし、その死の間際で善し悪しを自身で下す事はないだろうと思う。全てを良しとして、全てを諦め観念して死を迎えるのだと思う。

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格闘技と武道と趣味vol13~東京での武道と仕事と変化について《 ITの変化》~

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年齢的には一番伸びる20代から30代前半までいた訳だが、重要な客先や、売上金額を任せられ、優秀営業にも何度も選ばれ、会社からの期待があったのだと思うが、東京本社の企画部に配属される事になった。営業の最前線から作戦本部に行くようなものだった。

新格闘技では5段の師範代の資格を与えられていた。色んな大会企画や、実行委員として選手として中心的に動いていた。新格闘技統一ルールでのフリー参加の協議会も三回実施して、グループ内のでテコンドーとは違うもう一つのより実践に近いルールで極真系の選手などにも評判の良かったので、断腸の思いではあったが、S先生も含め、門下の皆が関東での支部設立を期待して送り出してくれた。

取り合えず、私の武道人生の一つの到着点はこの地方支部の創設になった。一武一流を目指すと言う意味では、先生の指導の元ではあったが、新格闘技を開き、道場を持つ事になった。しかし、仕事との関係もあったが、大会を開く事も無く、支部道場を展開する訳でもなく、一人で出来る範囲内での自分の納得できる武道の道であった。

しかし慕って練習に参加してくれる、大学の拳法部後輩や、福岡での道場の後輩が数名いたので、結構楽しい道場運営だった。

これも三十台前半の武道家として油の乗った時期だったから、技術・体力・やる気面で十分耐えられるだけのものがあったからだと思う。

さて、東京転勤での仕事面はと言うと、この東京転勤と共に充実と変化、新たなチャレンジが始まった。

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《当時のオフィース環境》

ここで、当時の仕事に関して話しておく。カメラ精密関係のメーカー販社の営業だったが、転勤と言っても、営業所から営業所では無かった為、今までの仕事の段取りや、やり方は全然違った。第一内勤なので外に出る事が少なく、そんなことが自分にできるのだろうかと素朴な不安があった。

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《ビジネスの三種の神器

当時はまだ、PCが普及し始めるころで、ビジネス文章や配布資料は、ワープロで作成していた。(ワープロも自社製であった為、かなり機能の高いものが使えた)

スモールオフィースと言う言葉がキーワードで三種の神器として、ワープロ、コピー、Faxが必需品と言われた時代であり、生産性向上が一気に個人事業主ににまで広がった時代で、ワープロは出始めであったが、コピーもFaxもあったが一気に低価格化(と言っても30万を切る価格)していて、カメラルートでも販売店の自社利用として導入していた。

《時代はPCメインに》

程なく会社がアップルの総代理店となる事で、ワープロマッキントッシュになり、本格的PCを扱う事になった。マッキントッシュは当時、大学教授やデザイナー、医者などが好んで使う第四世代PCで、当時のNECPC-9801富士通はFM-8の時代である。(1980年代中頃)

OSがMS-DOSからWindowsに移行する過渡期で、アイコンでの対話形式(グラフィカルユーザインタフェース)が徐々に出始めた頃である。程なくウィンドウズ95が発売された。

私がPCを仕事でPCを活用するようになったのは、通常の会社員レベルでは早い方だと思う。それは、違うセクションではあったが、勤めている会社がアップルの国内総代理店であり、ビジネスシーンに積極的に活用し、拡販をして行きたい姿勢だったことや、所属が販売企画セクションで、PCの活用幅はかなりある業務であったことで、様々な活用提案ができた為だ。中にはPCを活用する為の、「〇〇支援システム」なるキャッチコピーを社内で公募した位に、新しい導入切り口を探していた。当時はまだ、PCを設定する際の「環境」やツールの「マウス」と言う言葉に戸惑う様な時代だった。

PCとは何ぞやから始まって、それによってできる事と出来るが不便で役に立たない事など学びトライ&チャレンジを繰り返していた。

《現場業務では》

アプリケーションもメーカー提供のものから、市販のものに徐々に広がって行った。

しかし、全て手探りで、完成度も低い状態からのスタートであり、どこのソフトメーカーが導権を握るのか混とんとしていた。Windows95も画期的とは言え、使えるソフトはまだ少なく、ワードと表計算、ゲーム位に利便性を認める程度であった。それでもワープロ単体製品から徐々に置き換わり、エクセルの表計算ツールが充実していたので、ワード機能と融合してくると、ほぼ殆どの社内書類の作成が可能となったし、プリンターが分離され、プリンター性能が向上することで、写真プリント迄可能になると、写真業界では将来的な脅威となる事は明白だった。

そういう中で揉まれた結果、少なくてもビジネススキルとしてPCを武器に様々な業務を効率的短時間に仕上げる事が出来る能力が磨かれた。ある意味、武道で鍛えた、目的の為に何をすべきかと言う論理的発想が大いに役に立つことになった。

私の場合は武道であったが、それは別段武道でなくても他のスポーツ、ジャンルでも同じことである。ロジカルシンキングと言うキーワードを昨今よく聞くが、この発想やリテラシーが重要なのである。また、そう言う思考力を究めたいと思う熱意と執念で活用すれば、このビジネススキルは究める事が出来る。

もっと言えば、これはスキルであり、このスキルを使って何を目指し、何を実現するかをしっかりフォーカスしてデザインできることがビジネスマンとしても価値だろう。

格闘技と武道と趣味vol12~東京と地方~

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《東京は”金””時間””若さ”があればパラダイス》

東京本社に転勤になり、平塚に居を構え、道場を持つようになって、自分の時間が逆にできる様になったと、書いたが、地方での社会人経験しかなかったが、関東に出てきて、改めて思いたる事があった。

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《東京の魅力》

東京は政治・経済・文化の中心である。横浜の大学に通う頃は横浜に4年間いたが、実は差ほど都会に魅力を感じる事は無かった。(奨学金を貰いながら、部活の合間にバイトを目一杯入れて生活してるのだから、”金””時間””若さ”の三拍子が揃っていなかった。)

だから、都会の人混みと忙(せわ)しなさ、やたらと高い物価に辟易としながら部活に励んでいた。それはそれで貴重で、充実した日々ではあったが、どこでもできる事で、東京でしかできない事ではない。

三要素の中であるのは”若さ”と”時間”であったが、この”若さ”とは肉体的な部分のみならず精神的部分も含まれる。つまり、夜通し遊んでも大丈夫、ちょっとやそっとの恥はかき捨て、別に失うものも無いのでチャレンジ精神は旺盛と言ったところだ、現実的には、お金が無いから、バイトで時間を消費するし、遊ぶことも、チャレンジする事も知らない。地味に部活動で汗を流して若さを発散する日々であった。

私がこの三要素をちょっと実感できたのは学生時代を過ごした関東から10年余り離れて、再び東京への転勤で戻って来た時かもしれない。企画部に所属し、東京から全国の支店・営業所に出張したり、国際的な会議や、セミナー、コンサート、展示会等に係る事が増えることで、多少の”東京感”を実感した。

例えば、今まで望んでも目にすることができなかった最新の情報や、著名人との面会、文化が望もうと思えば手に入るし、出かけて行って会う事もできるのだ。ここの部分は次回に改めて振り返りも含め思い出したい。

ここでは東京を含め転勤した地について話をする。

この妄想に似た感覚は、東京に出てくる若者には多少なりともあると思う。逆に東京で働く者が、地方に転勤になると、”都落ち”的感覚に落ち込み、かなり精神的ダメージが一時ではあろうが、あるのではないだろうか。

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《転勤人生で感じる事》

私の場合、上京、転勤で東京を出たり入ったり、両方とも経験し、上京時には、静岡清水出身者で田者には、横浜で暮らし始めた学生時代は、お上りさんの様にテレビやラジオで聞く地名に行ってみては、都会の空気を実感した。

そして、最初の赴任で東京以外の地に行くことになったときは不安が大きかった。社会人初の赴任地札幌は100万人の政令市であったが、関東までの距離を思うと、まさしく島流し感は強かった。

《札幌は日本ではない》

新入社員だったから出世とか左遷とか言う感覚は無いが、20代をここで過ごすと言うのには閉塞感が強かった。札幌は都会で服装のセンスが東京の感覚だった。

しかし、営業として担当したエリアが、道東や道南で釧路や網走だったから、北の果てを実感したものだった。北海道にはブラキストン線により生態系が本土と分かれる。(津軽海峡を境に北限線を引く)固有種が多く、ゴキブリがいない。

食も美味しく、名物も多い、住めば都である。秋の紅葉は9月から見れるが、紅葉の見事さはまさしく異国である。

しかし、圧倒的に人が少ない。自然が豊かだが、寂しいのだ。屯田兵の厳しい歴史や、アイヌ等固有の文化をあるが、淡色なのだいずれも単色なのだ。文化の匂いは薄い。

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《福岡でも雪がふるんだ

北海道から九州に1年弱で異動した時は、大阪も知らないのにそこを越して福岡への赴任は、全くイメージできず、暖かいところだろう位しか想像しなかった。実際赴任の日(1月20日)は雪が降っていて、愕然とした。(えっ雪降るの?)

しかし、単なる思い込みかもしれないが、福岡の女性はカワイイ人が多かった。福岡は素材としての良さを感じた。しかもズーズー弁北海道弁より、博多弁は関西弁とも違い、可愛く耳あたりがとても良かった。

私の場合は福岡が一押しで、ここに10年住んでからのサラリーマン生活は福岡に戻る為の転職人生だったから、人生の再設計を掛けて福岡に戻った事になる。

横浜→札幌→福岡→東京(平塚)→福岡→大阪→福岡で終の棲家を福岡と定めた。

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格闘技と武道と趣味vol11~平塚道場開設とKW君~

《平塚道場の開設》

大学拳法部のゴタゴタが落ち着いたところで、KW君とも連絡を取りながら、住んでいる平塚海岸近くの公民館と交渉して、毎週日曜午後2時間程借りる事が出来た。

二階の200㎡程のフロアーは手合いなどするにも丁度良い広さだった。まずは、自分の長男とその友達3~5人に声を掛け、子供の指導をする事でスタートした。

KW君も月に1度程度来ることができると言う事で、近所の30代の男性もたまたま、公民館に来ていた時に練習を見て入門を申し出てくれた。

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《道場らしく、武道らしく》

当初は、動きやすいジャージ等で参加してもらう事として、子供も大人も練習することとしたので、傍から見れば、道着を着ている私が武道のPRになっている程度で、ヨガ?健康体操?と何をしているんだろうと言った感じであったと思う。

ネットショップから子供の道着を探し、会社の取引先にお願いして、簡易印刷で胸章を作って貰い、武道専門ショップから、拳サポーター、脛サポーター、ヘッドギア、ミット、棍等を徐々に揃えた。今思えばかなりの出費だったが、無駄なものは無かった。

新格闘技ベーシックマニュアル(自作)が役に立ち、月謝や道場の運営などをそれに沿って、自ら実践する事になった。

平塚支部とは言いながら、福岡本部道場から支援を求めること無く、実質独立した道場であった。敢えて許可を得たと言えば、昇級、昇段ルールを定めていたので、その結果を本部S先生に報告し、了承を得て、新格闘技での格付けを受験者に行う事が本部との繋がりだった。

昇給昇格は一定の練習量をこなしている活動報告で、遠地でも新たな同志が増えている事を伝えたかった。

《拘った練習》

練習には拘った。少林寺拳法、テコンドー、太気拳いずれ動きも練習に取り入れて、練習の終わりには自由組手(手合い)をさせた。

最初は闘う事と練習で行う突き蹴りが、噛み合わないのが普通で、まず、子供では押し相撲から始めて体重移動を体感させた。

大人は柔軟性が重要なので、筋をほぐし、ストレッチをしてから、お互いの手の甲側の二の腕を付けての押し相撲(体重を腕に伝え、自身の体勢を崩さず、相手に力を伝える練習)を繰り返した。

「型」は必要だと感じます。全て始める時はカタチから入るという言い方をしたが、型がキッチリできる事で、動きに安定感が出る。

動きが変だなあとか、うまく間合いが詰められない、攻撃が出せない時に、一度型に戻り、細部を点検してみると、重心の移動きや、下半身と上半身のバランスを修正することができ、そのうえで、またフリーの実践的動きをしてみると、しっくりする。(型ばかりすると逆に実践では、使えない事もあるので注意が必要です)

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《スポーツを基礎体力向上に取り入れる》

格闘技に拘らず、別にスポーツを織り交ぜるのも基礎体力強化には良いと思うし、全身運動ではあるが、負荷のかかる部位が格闘技は膝や関節へのダメージが大きいため、走る事より、泳ぐことの方が良いと言うのが私の経験上の答えである。

子供は特に走るより、泳ぐことの方が楽しいだろう。水の抵抗の中でしっかり足をあげたり、手で水を搔く動きはナチュラルなトレーニングになる。

《身近で一番の武器は棒(棍)》

主具として棒(棍)を取り入れた。いざと言う時に近くの物を使って身を守るには、棒が一番使えるのはすぐわかる。

物を使った戦い方は、素手とは違う間合いと、体の使い方となり体で覚えておくは、どういった状態でも素早く最小限の動きで最大限の抑止効果を得るためには必要だ。

少林寺拳法でも棒を使う事は許される。しかし体系化されたものでは無い。単に禅を演武と言う、”見せる武道”を演じる時の小道具に過ぎない。

私の棒術は中国拳法の棍法を参考に”突き”、”打つ”、”払う”、”引っ掛ける”等様々な動きを一つの体系的型の中に織り込み棍法の方として第一~第二にまとめた。

少林寺拳法で使う錫杖は重く威力はあるが、子供には扱えないし、重さにより扱い方が若干変わってくるので、中国武術で使う棍を探して使う事とした。子供は背丈が低いので、4尺棍(1.21m)、大人は6尺(1.81m)棍が使いやすい。

棍には幹(みき)と梢(こずえ)がある。その為、棍の重心は中央より若干幹側にくる。これにより握り手もこの重心を支点に握り、梢を相手に向けて、幹側から突くように押し出すのが棍の使い方の基本である。

回したり、振ったり、叩いたりする場合の扱い方も、この基本による。後はどのような体勢からも、棍が体の一部の様に自在に扱えるようになることを目指す。

ゴルフのクラブと同じで、常に触っているとで、微妙なバランスのずれや、梢の位置や、相手との距離感が判るようになるものである。

沖縄空手身にはヌンチャクやトンファー、サイなどがあるが、いずれも特殊な形をしており、扱いには習熟を必要とするが、普段このようなものが身近には無い。せいぜい、市販品として目にするのは警棒位で、警棒も棍法の要領で扱い方を習熟することができる。

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この時期の修行はS先生から離れて、生涯武道を目指した武道人生では、選手から離れて、自分の信じる武道を熟成させると共に、次世代の人たちに教える事に注力した時期である。(子供が中心であったが…)

格闘家としての強さは、多分伸びる事は無かったと思うが、充実した修行であった。およそ7年間続いたがあっと言う間であった。

教え子たちにの昇級・昇格は、8級から始め、平塚を離れる時には有段者のレベルまで昇格試験を行えるところまでの成長を見る事ができた。

自分の長男は早生まれだったので、体も同学年の子供より小さく、いじめられ易いタイプだったが、この道場の仲間といることで、小学校でのいじめからは守られた気がする。

《古風なKW君》

㎾君は3年程月一で東京から平塚まで来ていたが、名古屋に転勤になり、一時期来れなくなったが、暫くして落ち着いたからと、また名古屋から来るようになった。私以上に武道に熱い思いのある。好青年である。

その後も大阪や、高松に転勤したが、交流は続いた。50歳前後での初婚だったが、細身だったが、筋肉質で常に体を鍛える事が趣味の様な人だ。格闘家としての力量は、攻守ともにオーソドックスなタイプであり、性格が良く出ていた。

一度、福岡への帰省時に声を掛けて、S先生の所に一緒に挨拶に伺う事にした。事前にS先生には話していたが、会ってS先生もとても気に入って、わざわざ、新品の道着にネームを入れてプレゼントし、KW君の労をねぎらってくれた。

今どき珍しい一本気の性格で、好きな映画が「男はつらいよ。フーテンの寅さん」と言う、古風な性格であるが、KW君には男気を感じる。良い出会いであった。

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