ミルコの趣味雑談

趣味を持つ事は大事です。始め方や、道具を揃えることなど雑談です。

格闘技と武道と趣味vol10~転勤と新たな出発~

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《順調な新格闘技とサラリーマンの転機》

新格闘技をS先生と立上げ、N先生グループ道場にも指導に行くなどしながら、テコンドーの大会開催など、少林寺拳法から離れ、3年程は武道人生も大きく変わり新たな活動真っ只中だった。まだ自分の子供も小さく、いずれ子供にもこの武道を伝えて行くのは楽しみだった。

そんな折、サラリーマンには付き物の転勤話が出てきた。

同じ支店に3年も居れば、何時でも転勤者候補と言われていたので、10年も福岡にいたので、まあ致し方ない時期であった。

勤務地は東京品川の本社であった。住居は神奈川県平塚だったから、東海道線京急乗り継ぎで1時間半位掛った。通勤で2時間が普通だったから、人並みだろう。ただ、平塚からは始発がでるので、品川まで座って行けたので、比較的楽であった。

《生活スタイルの変化》

仕事は企画部と言う事で内勤である。ルート営業から内勤と言う事で、転職並みに生活スタイルが変わった。朝も早く、夜も遅く帰宅なので、まとまった自分の時間を作れるのは土日の休み位である。いままで、週に3~4日体を動かし、道場で汗をかいたり、打ち合わせをしたりと武道に費やす時間が大きかったが、そこの部分がポッコリ抜けて、仕事に関わる時間が多くなった割には、気持ち的には家族との時間や、自分の時間ができたのは不思議なものだった。

ただ、赴任して3か月もすると仕事も落ち着き、盆と正月は福岡に戻り、道場に顔を出していたので、S先生や兄弟弟子とのつながりは継続していた。

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《武道練習道場が必要》

久々に道場に戻って汗をかくととても気持ちも良いし、動きも悪くなかった。今まで通りの感覚がフラッシュバックする。そんな帰省の折に、勢い自由組手(手合い)をすることになり、俗にいう60人と対する連続組手となった。20人位が順番に、2分毎に続けて手合いをし、時間にして2時間弱のハード組手だった。

よく100人組手と言うが、さすがに2時間だけでもふらふらになる。しかし、連続していると、相手が10人を超える頃には呼吸も落ち着き、動きも無駄が減り、消耗戦的な戦いから、一撃で制する動きになってくる。

この様な練習は在福時代にもあまりしなかったが、こうしてたまに会えるからこそ、相手になる門下生も消耗戦に付き合ってくれたのだろう。ある兄弟弟子は肋骨が肉離れになったと後で言われ、謝ったことを覚えている。

支部道場を開く準備》

平塚に戻り、やはり練習の基盤を作るには道場を開くしかなかった。しかし、まったく無名な格闘技で、知人もいない事からつてを辿る事も出来ず、まずは休みの日に近くの公民館や小学校体育館が使えるか等調べる事にした。関東は結構公民館が多く、あまり遠くないところに丁度良い広さの公民館があった。

自分の子供が幼稚園の年長で小学校に行くタイミングでもあり、子供の友達を勧誘してスタートすることとした。また、そもそも横浜の大学なので、大学の部活にOBとして見学に行ってみる事とした。

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《大学部活への緊急避難》

大学の少林寺拳法部では13年程離れていたので、当然現役の部員とは見識も無かったが、私が在籍時代から、大学指導に平塚道院から派遣されていたH先生が、今も来ていると聞き、懐かしさもあったが、土曜の練習しか見に行けず、会えなかった。最初からただ見学の目的と言うより、体も動かしたかったし、現役の大学生の力量も知りたかったので、練習に参加した。

少林寺拳法に籍はまだあったが、敢えて新格闘技の道着で参加した。多少違和感はあったものの、その間の経緯なども説明しながら、少林寺拳法に無い、新格闘技の良さと強さをPRした。一部の部員は賛同し、直ぐに順応してきた。

数度訪問する内に、私よりも10歳年下のOBのKW君と練習で一緒になった。彼は大手素材メーカーで営業として、東京に勤務しており、体を動かしたくて月に1~2度来ているとの事だった。すぐにKW君とは意気投合し、彼も新格闘技を一緒にしたいと言う事になった。

まだ道場を開く前で、横浜よりかなり遠方になる平塚では、なかなか通う事も難しいので、大学道場を練習の場にする事とした。

大学道場は、そのころ既に在学中にあった武道場は取り壊されていて、トレーニングセンターとプール、シャワールームなどを完備した近代的な練習スペースで、とても快適だった。拳法部部員も従順で、平塚のマンションに呼んだりして、良い関係が続いた。

大学少林寺拳法部で格闘技に目覚めたOBや学生に教える事も内容の濃い練習になった。

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そんな折、道院から派遣されているH先生から連絡があり、会って話をしたいと言う事で、土曜の練習日に合わせてキャンパス内の喫茶店で会う事となった。

こちらは一緒に練習していた。KW君と相手はH先生ともう一人拳法部OBと称する見たこと無い者が同席した。

用件は、学部内の少林寺拳法部内で、少林寺拳法と異なる格闘技を教えている事との通報があり、本部で問題になっている為、指導を任せられているH先生が困っていると言う事だった。

どうも同席しているOBが、卒業後、県内の道院に通っていて、拳法部に遊びに来た際に聞いた話がリークされたようだった。

そのOBはH先生を差し置いて、拳法部を荒らす不届き者としてまくし立てた。鬼の首を取った様に、H先生にも責任があると言う様な事も言い出した。

意外な展開であり、KW君が不機嫌になっているのが判ったが、目でたしなめて、まずはH先生の長年のご苦労を労った。現在の少林寺拳法の変化と、高弟に対する破門劇などを説明し、一番頑張った門下生が切り捨てられう事の理不尽を伝えた。

H先生も同感であったが、先生はそれでも弟子の手前もあり自分なりに大事にしている武道を伝えていると言うことだった。( 平塚道院の道院長も本部から疑惑を掛けられ、破門になりそうになったそうだ)

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拳法部の伝統は外の道院とは別にクラブ活動として学生が修練を重ねる場である。

少林寺拳法は5段の段位を持っている自分からすると、そこをわきまえて、道着も変えて、他武道として明示したうえで、一緒に3年生相手に手合いをしてその違いを伝えていたのだ。こう言った気遣いと精神にのっとり部活の練習に参加していたと説明した。

そのOBは段位でも格下だったし、年もかなり下であったにも拘わらず、部活と少林寺拳法を代表するかの様な態度は高慢で抑圧的だった。

武道ではたとえ年下でも自分より高段者のもの、あるいは先輩、年長者に対しては一定の礼節を以て接するのが道と教える。

それに対して、このOBの態度は明らかに非礼であった為、一喝すると、押し黙ったまま何も言わなかった。話の”落としどころ”を付けるべく、提案したのは、先生に迷惑をかけるのは本意ではないので、今後の拳法部との付き合い方は気を付け一定の距離を置き、後輩との乱取り練習は控える事とし決着をみた。そして、その場は散会となった。

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KW君とは拳法部から離れる事を伝えたが、最後に拳法部の主将と副将を呼び真意を尋ねた。はっきりとした意思を示さなかったので、意思がないなと言う事が判った。そう言う意味では、意思のない者に教えても、曲解されるだけなのだと悟り、拳法部から離れる事を決めた。

後日談になるが、3年後に、少林寺拳法部員が1年、2年生で集まらず、残る部員も女子だけになり、継続できないと言うとこで、廃部するとの通知と詫び状が届いた。

この時の幹部が卒業した翌年の事であった。KW君からも、自分たちが居なくなった少林寺拳法武に男子部員も減り、女子色が強く、活動も鈍くなっていったとのことであった。

部活の運営は代替わりして行くので、その時々で継続の危機があるのは事実だが、それを支えるのが、OBであり、指導者であったはずだが、それらを拒絶した時点で、しょうがない末路と思う。30年以上の歴史のある部活であったので残念である。もうOB会と称して集まることも無いと思うと寂しい限りである。

 

格闘技と武道と趣味vol9~生涯武道と太気拳~

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太気拳創始者

ここで、この澤井先生の太気拳について少し説明と思いを感想を述べたい。

澤井健一先生のWikipdia等のプロフィール

出生地: 福岡県 生年: 1903年 死亡: 1988年

と言う事なので、今から118年前に生まれ、85歳の23年前に亡くなっている。福岡にずっといた訳ではなさそうなので、会う機会があったかどうか判らないが、少なくても初期の高弟はいまだ健在で、直接の伝授された教えや、技を知ることができるはずで、まだまだ、初期の太気拳の姿を知ることができると思う。

大山倍達宗道臣と時代を共にしている方である。写真からも老年になっても鍛錬されていたことがうかがえる。

大気拳創出のきっかけになるのは中国において王向斎(オウコウサイ)宗師より意拳(大成拳)を学び、師の許可を得て創始したとある。となるとその王向斎宗師系の門弟もまだ生きてそうな気がするのでちょっと興味が沸く。

太気拳とは》

その鍛錬の基本は四つで「立禅( りつぜん)」「揺(よう)」「這(はい)」「練(ねり)」「内功」を養う、気を練る事を基本とした気功法である。練習体系がシンプルなのに、実戦的な動きを主体とする拳法である。
ここで、ルーツの中国拳法の「意拳」を説明しておくと、別名「大成拳」とも言い、1920年代に中国で王向斉(1885~1963)により創始された拳法とある。

王は中国河北省深県に生まれ、形意拳の名人と言われた郭雲深に武術を学んだ方で、形意拳は、太極拳八卦掌の三拳で内家拳と総称され、気を練り内功を養うことを特徴としている。

太気拳誕生秘話》

澤井先生の形意拳との出会いのエピソードですが、先生は武芸に秀でており、隼流館(双水執流)、講道館柔道、剣道、居合道等の流派を学び、柔道五段、剣道四段、居合道四段と言う、投げる、締める、切ると言うスーパー武道家でした。1931年に中国に渡り、友人の紹介で王に面会し、手合わせをする機会を得た訳です。

当時30代も半ばの澤井先生は武道家として一番充実していた時期だった。

王が痩身で小柄な老人で負ける訳がないと見えたところが、澤井先生の柔道の技は封じ込まれたばかりか、剣道の技で挑戦しても、棒切れ一本で簡単に払われ、澤井先生は完敗を喫した。

そこで、弟子を取らないと言う王に弟子入りを懇願し、「決してこの武術の修行を止めません」という血書まで書いて一週間かけて許可されたと言う。

その様なドラマチックな出会いから修行を積み、1945年8月。終戦後、 日本へ帰国し、一人で站椿功(たんとうこう)を中心とした鍛錬に励んでいたと言う。 そして王向斉の命を受け、意拳に自らの柔道・剣道・居合道等の武道の要素を加え太氣至誠拳法(通称・太気拳)を開いたのです。

 《独特な太気拳の修行》

太気拳創始後、澤井先生は道場を構えず、東京の明治神宮野外にて指導と実践を続けていました。 その為、太気拳独特の修行法と激しい実践組手の場として神宮の杜は貴重な修練場となった太気拳の4つの修練法を簡単に説明します。

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太気拳 修練方法》
「立禅」:基本となる力を養う
太気拳において基本となる稽古方法が立禅です。 立禅は鍛錬と静的禅を合わせたもので、無心の状態で自然に立ち、胸の前でボールを抱くように腕を上げ、10分とか20分とかそれ以上の時間を掛けて行います。やってみると判りますが、姿勢を維持する事や、膝を軽く曲げて立つことで、全体の筋力の自然な鍛錬とバランスの良い姿勢が無理なく培われます。
「揺」:自然の力を動きの中に活かす
片足を前に出した半身での立禅(半禅)から、ゆっくりと糸を繰るように腕を伸し、縮める。 立禅を継続する事で身体中にバネのような弾力や波動を受けたようなうねりを感じならら上半身全体のバランスを保ちます。 それらの感覚は直線的なものでは無く、まさに渦の様なものです。全身に受ける重心の動きを利用して全身の筋肉、関節、筋と発する気がバランスよく無理なく自然に動く状態を培います。この動きが「揺(ゆり)」です。
「這」:下半身を練る
運歩法が、武術の基礎です。「這」は泥の中で歩むようにゆっくりと同じ歩幅で腰を落とし腕を上げ、ゆっくりと歩みます。腰をかがめず、後ろ脚をしっかり前足の横にすり足で寄せ、ゆっくりと斜め前に踏み出します。腰の位置は一定に進んで行くことは、下半身を自然と鍛え、安定させます。しかし、上半身とのバランスが重要で、意識を全体の動きとして流れる様に歩みます。

「練」:統合的な動き
「立禅」を「揺(ゆり)」「這(はい)」を通じて動きの中でも維持できるようにします。 その動きをもう少し大きな動きの中で発揮します。 移動稽古のように前後に歩みながら腕を回すような動作を行います。これが「練(ねり)」となります。

練にはいくつものパターンがあり、太極拳のような動きや捌きを修得することにより戦いの中でも自らを護り相手を制することができるようになります。

動いても立禅で培った状態を保ち続けることができるよう、身体を餅のように練ってゆくことが重要です。
内功(気功)は自己の内外を一体化し鍛錬するものです。
内功の稽古の中心は立禅で。 これは鍛錬と禅を統一させた鍛錬です。 心拍数を無理に上げることなく鍛錬中に休息し、休息中に鍛錬をすることができるもので、静かに気分を落ち着かせ、精神を集中します。

この様に、どこでも誰でも、特定な場所や器具、相手も不要で、鍛錬できる武道が太気拳です。

太気拳の良さを本当に感じるには》

単にこれだけで基礎を作り、攻防一体で相手を制し、老若男女問わず実践できる生涯武道と言えます。型が無いので、実践の動きの中で、相手と対した時の動きを体感する必要があります。

この練習をするしてきましたが、直接太気拳の門を叩いた訳では無く、S先生の指導の下、ビデオや書籍、指導書等で解析しながら修行に取り込み新たな格闘技のベースを作っていきました。

では太気拳士となれば良いと言うかもしれなしが、澤井先生がそうであるように、様々な格闘技・武道を経験してから太気拳を集大成として作り上げた訳なので、S先生や私にとっても、目指す新格闘技の要素に過ぎない。

《最終的に目指す生涯武道》

人生を通じて格闘技と付き合いたいと思うのであれば、最初から太気拳が良いと言っている訳では無い。

できれば、太気拳を経験することで”気づき”、そして選ぶのであればそれで良いし、他の武道や格闘技を経験して、疑問を感じ、太気拳に行きつくのも良いと感じる。

「なるほど、これなら全ての年齢で、戦う事以外の到達点を得る」と納得できる武道を実感することが重要である。つまり”生涯を通じてできる”武道なのである。

S先生と私たちは、この生涯武道を体系化するために、若い頃は少林寺拳法やテコンドー、他の格闘技要素も取り込んで競技系の総合格闘技でスピード・力を求めて行くことは積極的に進めた。

それらの練習の傍ら、ベースになる体力作りとして、太気拳の基礎鍛錬も取り込むことで、徐々にスピード、体力の武道から、静であっても芯のしっかりした武道に移行して行くと言うイメージである。太気拳を参考にしながら、S先生の個性的な武道を皆で作り上げることとした。S先生の新格闘技である。

 

格闘技と武道と趣味vol8~目指す武道とは~

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《年齢の応じた修行とは》 

少林寺拳法がスポーツライクになり、テコンドーが競技性を高めるために武道性が薄れ真の武道を目指すためのイメージが必要である。最初から”強さ”を目指さないのは格闘技ではない。

S先生ともその具体的イメージを共有するためのディスカッションを良くした。このS先生も変わった人で、実際に指導する時の技の威力や鋭さは既に述べたが、自身がトレーニングをしているを、道場で見る事が無かった。皆道場でトレーニングに励み、反復練習などして技や、動きを覚えるのに、なぜS先生は練習しないか。

これは本人に聞いてもはぐらかされるだけで、どうも真相が判らなかった。

S先生のお宅にはよく通ったが、ある日奥さんに普段の先生の事を尋ねたことがあったが、「いつも姿鏡の前で、体をひねったり、長く中腰でいたり、奇妙な動きをしている」と笑いながら言われた。

その時、あっそうかと、理解できた。つまり、既に激しいトレーニングや練習で鍛える時期を超えて、太極拳の動きの様に、イメージトレーニングとアイソメトリックストレーニング(静的筋力トレーニング)をしているんだと判った。年齢を重ねる事で、そのトレーニングの方法を変えていたのだ。

《生涯武道とは》

選手年齢を超え、中高齢の方は、審判や型の指導等をすることで、経験年数を重ね深みを増す事ができるし、長くその武道団体と携わって行くのも良いと思う。

兄弟弟子や初心者指導も重要な役割だ。しかし、それが生涯武道では無いと感じていた。飽くまでも自分が実践する生涯を通じて実践できる武道があるはずと思っていた。

《強さをどうやって表現するのか》

以前”強い”とはどういう事か書いたが、耐力や持久力、筋力、瞬発力等は必ず落ちる。但し、基礎的な体力を維持することで、ある程度は維持できる。

それは節制であり、日々の健康増進、トレーニングであるが、これも年齢によって内容を変えながら、オーバーワークにならない様にして、武道ができる体を維持し、生涯を通じて武道を続けられることを重視したいと思った。

これは、まだ人生を半分も終わってない段階で、これを目指すのは結構切ない話だ。なぜなら、10年後20年後の体力か環境が判らないのだから、生涯続ける武道と言う答えは無く、人それぞれがそうしたいと思うところに”生涯の武道”の姿がある。

但し、これは”強さ”とは違う。その年齢、体力でどう対応して行くかの判断ができる様に、自身の体をコントロールしている事が修行・鍛錬の肝だと思う。

《年に関係なくできる武道》

よく剣道の高段者が、年老いて腰が曲がっていても、竹刀を持つと背筋が伸び、しっかりとした足取りで、しかり剣をふるう事ができる。

これが武道のあるべき姿ではないかと思えてしまう。そこで見つけたのが、これにとても近い徒手武道である太気拳だった。

これはルーツを中国の大成拳(意拳)に持つ拳聖と言われた澤井 健一先生の始められた生涯武道である。極真空手創始者大山倍達や柔道のヘーシングにも多大な影響を与えた方で、その姿をYOUTUBEで見ることができる。

無駄が削がれ、非常に少ない動きで最大限の威力を発揮し相手を制する言わば、”枯れた”究極の武道形である。

目指す武道はここにあった。S先生も30過ぎたころから既にこの方向性で自分の目指す武道のベクトルを合わせていたのだと思う。これが、目指す新格闘技の在り方なのだ。

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《自然の中で戦う武道”太気拳”》

S先生がこの太気拳に影響を受けまた、澤井健一先生の生きざまに共感したから、自ら目指す、剛の武道の最終形を「太気拳」に求めたのだ。

S先生は当時この「太気拳」の他流試合のビデを入手していて見せてくれた。

相手は極真空手のようであった。澤井先生の弟子との対戦であるが、太気拳が公園や、庭等自然の中で修業をする為、野外での対戦であった。

極真の直線的な動きに対して太気拳は本当に柔らかな動きで、間合いを見切る事でダメージを受けない、それでいて、攻撃に転じる時は一気に踏み込み手のひら(掌打)で畳み込む。

極真は顔面の攻撃が無いため、無防備だった。一進一退で、個人の力量にどの程度差があったのか明確には判らなかったが、自分のペースで戦ったのは大気拳であることは間違いなかった。ある意味”強さ”を感じた。

この武道は一つの終局形だと実感した。

 

 

 

格闘技と武道と趣味vol7~テコンドーとその限界~

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《李先生について》

テコンドーについては、本格的に学ぶ他武道であったので、新鮮な刺激を感じた。

派遣されてきた李先生はクッキオン専従かどうか判らないが、中年もあり、技に切れ味は無かったが、熱心な良い指導者だった。N先生の経営するマンションの一室に単身で住むことになり、たまに韓国から奥さんが様子を見に来ていた。

私としては余り関わる事が無かったが、カメラ業界にいた私は、当時韓国で日本からのカメラの輸入には高関税がかかっていた為、日本からの土産はカメラがとても喜ばれるし、転売目的での購入も多く九州では人気商品として韓国客がよく買ってくれた。

李先生も友達への土産としてカメラが欲しいとの事で、卸価格で販売してあげた。マンションに届けに行った時、李先生は将来、子供を日本の大学に入れたいと言って、日本の生活や文化をとても気に入っていた。韓国人の中には先進国日本を羨む気持ちが潜在的にある様に感じた。

 《テコンドーの本当のルーツ》

そんな李先生の計らいもあり、テコンドーを始めて1年で、二段を取得できた。テコンドーは韓国の古武道テッキョンから発展した韓国古来の武道と言う事だったが、実は第二次大戦時日本の統治下にあった韓国で、軍人が現地韓国人鍛錬の為に空手を指導したことがルーツであり、公然の秘密なのだ。

《テコンドーの体系と競技形式》

 テコンドーは空手と近い教育科目になっていた。型と組手である。

 型は太極(テイグゥ)1章から8章まであり、それぞれの段位に応じてマスターする。組手はオリンピック競技ルールに従ったもので、ほぼキックでポイントを取って行く。

 

リングが8m四方で1対1で行われ、1Rが2分間を3Rで競われる。 攻撃は胴体に装着するプロテクターと頭部に装着するヘッドギアに対してのみ可能で、それ以外への攻撃は禁止されている。 胴体へのパンチと蹴り、頭部の蹴りのみが有効と認められ、中央のレフリー(主審)とコーナーにいる副審により決まる。

 面白いのはこのポイントで、テコンドーは多彩な蹴り技が最大の見どころとしている。試合でのさまざまな足技の応酬が醍醐味としてPRしている。

なかでもポイントで劣勢の選手が終盤に見せる「上段後ろ回し蹴り」は、一発逆転の大技とし、後ろを向いたと思った瞬間、死角から頭部に蹴りが飛んでくる素早い回し蹴り等は、決まると5ポイントになる大技である。リードしていても逆転可能なのだ。極限にまで、股関節の柔軟性を高め、大半の選手が180度開脚できるという。これは相撲取りの又割同様怪我の防止にもなる。

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                  競技(試合)

《テコンドーとはどんな組織か》

 競技人口・団体運営としてのテコンドーについて記載しておきたい。

 良く言うのは「足のボクシング」とも呼ばれ、漢字では「跆拳道」と書き「跆」は、踏む・跳ぶ・蹴る等の足技を意味し、スピーディーかつ多種多様な蹴り技が繰り広げられるスポーツを標榜している。

オリンピックの競技に採用されているのはWTFで、競技人口は世界で5000万人とも7000万人とも言われているが、WTF韓国系団体であり、北朝鮮系のテコンドー連盟は、ITFであると聞かされた。同じテコンドーであるが、ITFの方が若干日本の空手に似ている気がする。オリンピックでの試合では、電極を胴やヘッドギアに付けて、フェンシングの様に判定をしていると言う。

《他武道とテコンドー》

 テコンドーはかなりの他武道から転身者が多い、他武道・他格闘技転身者は足技の多彩さには驚く。少林寺拳法にはローキックは無いが、テコンドーにもローキックは無い。なぜなら、胴よりしたの攻撃は無効であり、反則にもなる。”かかと落とし”として亡きK-1ファイターのアンディフグの得意技っだったが、これはテコンドーのネリョチャギである。この技は奇抜なだけではなく、ディフェンスにもなっている。

極真等空手系はの蹴りの動きには一言で言えば破壊力を感じる。"剛"の蹴りである。対してテコンドーは予測を超えたスピードと方向からの多彩な蹴りで、”柔”の蹴りと言った感じである。

少林寺拳法では蹴りと言えば、前蹴り、足刀、足の親指付け根で蹴る廻蹴り、後ろ蹴り等オーソドックスな足技しか無いが、テコンドーには無数にある。エキシビジョンなどでは空中での三連蹴りや回し蹴りを見る事もできる。

その為、どうしても体の重心は後ろに掛かり、アップライトで常に前に出ている足はいつでも蹴れる体勢にしている。相手との間合いを詰める時も、後ろ足でケンケンするように前足を浮かせて、常にネリョチャギが出せる様にしている。

 この様な多彩な足技は新格闘技、極真、K-1等ではかなり取り入れらえている。それだけ進化した蹴り技なのだ。

《ブラックなイメージのテコンドー協会》

 しかし。今一つ人気が無いのが現状で、協会のスキャンダルの多さも影響している。2019年のニュースで話題になった金平会長問題、2004年アテネ五輪の出場権を獲得したは岡本選手は、競技団体の分裂騒動でその権利を剥奪されようとしていた騒動や組織団体としての問題が多すぎる。

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テコンドーを始めた当初も似たようなもので、N先生が門下生を一斉にテコンドーへ転身させ、一気に規模を大きくし一大勢力になっていく過程で、既存の福岡のテコンドー連盟とは上手くいかなかった。一気に競技人口を増やそうとした背景に、利権や金にまつわるいざこざはここにも顕在化したと思う。

李先生も既存の協会とは直接関りが無いため、ある意味福岡の県連に入るメリットも拘束も無いため、当時空いていた長崎県の県連を自前で立上げ、会長に収まってしまった。聞く所では今は熊本の県連会長も抑えたと聞く。パワーゲームかもしれないが、歪であり、まとまりの無さがこのようなところにも良く出ている。

《競技テコンドーの歪》

 テコンドーがオリンピックを意識して勝敗に拘る競技性を高めたことで、本来の武道性はどんどん薄まったと感じた。

足の威力はあるものの、蹴り技を多用することで、運動量は多くなり、短時間で体力を消耗する。トリッキーな動きで相手のスキを突く、どうしても足技主体であるため、間合いは遠めになるので、間合いを詰めるための足捌きや、踏み込みの速さ、回転技の多用などは、ある一定年齢をピークに一気に体力的限界に達する。

息の長い武道としての修練を楽しむには、過酷であり、そこは少林寺拳法の様な、年齢層を意識した練習体系にはなっていなかった。

《競技テッコンドーの限界》

とても年寄りにできる競技では無くなってしまった。これはS先生と研鑽してきた格闘技とは明らかに異なる方向性であった。

 その為、2段を取得し、指導もしていたが、私はテコンドーで得た知見を新格闘技生かし、生涯武道をテーマに重きを置くことにした。

 審判や型の指導等は経験年数を重ねる事で深みを増すものかもしれないが、それが生涯武道では無いと感じたのだ。

以前”強い”とはどういう事か書いたが、耐力や持久力、筋力、瞬発力等は必ず落ちる。但し、基礎的な体力を維持することで、ある程度は維持できる。それは節制であり、日々の健康増進、トレーニングであるが、これも年齢によって内容を変えながら、オーバーワークにならない様にしながら、武道ができる体を維持し、生涯を通じて武道を続けられることを重視したい。

但し、これは”強さ”とは違う。しかし、その年齢、体力でどう対応して行くかの判断ができる様に、自身の体をコントロールしている事が重要だと思う。

よく剣道の高段者が、年老いて腰が曲がっていても、竹刀を持つと背筋が伸び、しっかりとした足取りで、しかり剣をふるう事ができる。これが武道のあるべき姿ではないかと思う。

とても近い発想の武道として、これもルーツを中国の大成拳(意拳)に持つ

拳聖と言われた澤井 健一先生の”太気拳”がある。極真空手創始者大山倍達や柔道のヘーシングにも多大な影響を与えた方で、その姿をYOUTUBEで見ることができる。

無駄がそがれ、非常に少ない動きで最大限の威力を発揮し相手を制する”枯れた”武道である。

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格闘技と武道と趣味vol6~テコンドーとの出会い~

《テコンドーと二足のわらじ》

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新格闘技は創始したのがS先生なのでN先生グループが少林寺拳法では上位組織であった為、グループの道場が新格闘技に賛同して参加するとなると、N先生グループのトップにS先生が立つ事になってしまいます。そうなるとN先生との関係をどうするかが微妙な問題となる為、敢えて、よその道場を取り込むことはせず、自道場内の充実に重きを置いた。

《新格闘技の模索》

そこで考えたのは、それぞれの先生少林寺拳法を続けようが、他の武道、新格闘技を始めようが、それは別に、統一ルールを作り、フリー参加の総合格闘技大会を開催し、そのルールの周知や少林寺拳法との違いや、その対応をS先生が中心になってグループ道場に声かけして合宿などをN先生グループ内で行った。

丁度その頃、N先生が、テコンドーがソウルオリンピックからオリンピック競技になる為、現在韓国が積極的に競技人口を増やそうとして、空手や、キックボクシングジム等のオリンピック競技として認められていない格闘技団体に対して、「オリンピックに出れる」のを餌に、盛んにテコンドーをPRしてきていたのだ。

テコンドーを習うのであれば、日本で言う柔道の講道館の様な、韓国の国技館(クッキオン)から指導者を派遣してくれると言うような話をしてきた。これをN先生グループの次なる普及武道として道場経営、グループ運営しようと言う提案だ。

《テコンドーのイメージ》

テコンドーと言っても何のイメージも無かったが、空手着の襟を黒くした道着に、空手に比べて腰の位置が高く、K-1正道会館をベースにしている様に、空手をベースにした競技性を高めた格闘技くらいの印象だった。

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空手が柔道に対する徒手空拳の打突系武道の代表イメージを持つ日本では、韓国アレルギーもあり、普及は難しいと感じた。試合を見ても軽さを感じ、俗に言うカッコよさが無いので、苦戦すると感じた。

《オリンピック競技としての勢い》

しかし、だからこそ、これから一から始める格闘技としては、オリンピックの波に乗れば、認知度も高まり、支援が充実しているかと言うセーフティネットにも若干期待できた。

指導者の派遣は本場韓国からと言うことで、意気込みを感じたし、既に習っている武道で段位を取得しているのであれば、派遣する指導者の承認のもと、クッキオン認定の段位取得を日本でできると言うのも優遇されていると感じた。

N先生等はメンツもあり、最初から名誉段位を要求し認められていた。(まあ、グループの長だからカッコ付けないと門下生の手前、示しが付かないと言う事だろう)

《テコンドーを始める》

少林寺拳法から離れ方向性が定まっていないN先生グループは、渡りに船でこの話に乗った。クッキオンから李さんと言う40代前半の高段者が派遣される事になった。

しかし、派遣だけで生計は派遣先で面倒を見る前提とのことで、月謝の一部を李さんの給料にあてがい、数道場の指導を2年間専業契約で合意し、テコンドー修行がスタートした。

当時福岡には岡垣町に福岡県連盟の本部道場があるとのことで、数度行ってみたが、あまりぱっとせず、N先生もそこ配下に入る気はなかったのだろう。既存の組織にはあまり良い噂を聞かないのが状況だった。

S先生は李先生からのレクチャーを受けるまでも無く、競技、練習風景をみてポイントを把握しており、直ぐに同様の動きができていた。

《実感した違い》

突きは空手とほぼ空手と一緒。蹴り方も同様であったが、繰り出し方や、回転してからの蹴り、後ろ蹴り、跳躍しながらの足刀やネリョチャギ、回し蹴りや、後ろ蹴り、正面から蹴り上げて横に並んだ人の顔面蹴るとか、ユニークな技が多い。この蹴り技のタイミングの取り方や重心の移動は練習が必要だったが、実践的だと感じた。

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格闘技と武道と趣味vol5~~新格闘技立上げ~

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《新格闘技》

S先生と始める新格闘技は少林寺拳法の道場時代から、大きく変わるものではなかったが、今まで使っていた少林寺拳法道着から新しい道着を作る事とした。見た目を気にした訳ではないが、今までの拳法着と言われる道着をより、これから広めて行こうとする新格闘技の動きにフィットしたものにする必然性はあった。

今は見当たらないが少林寺道着も扱っていた、地下鉄藤崎駅近くの武具専門店に行って相談した。空手着の動きやすい薄い布地と柔道着の丈夫な厚い布の中間程度の生地で、掴み耐えられ、動きやすくした。

空手着の様に内側に紐を付けて襟元が開かないようにした。袖は七部程度の長さにして、突きが絡まないデザインとした。胸元には新しいロゴマークを付けて新格闘技を明示したものだ。

《目的に合わせてカタチは変わる》

しかし、この道着はその格闘技の動きに合わせて変わるべきと言う考えは、次に出会う事になる「テコンドー」では、より色濃く出ていた。

見た目は襟の黒い道着の様に見えるが、既に着物の様に前を合わせて帯で締めるのでは無く、道着はポンチョ風にかぶるタイプで首の部分が道着風に見えるだけで、発汗性を良くするために脇の部分は大きく切れ上がり、紐が付いていて、はだけるのを防いでいる。

また、帯は軽く短いのでベルトの様なものだ。全体的に発汗性が良い生地で軽くできている。テコンドーがスポーツを目指した結果このような選択になったのだろう。(だったらジャージで良いじゃないかと思うが…)


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《マニュアル作成》

対面で手取り足取り指導するのが基本であるが、やはり考え方や、技の体系、運歩法等新格闘技であっても、要領が必要である。

S先生に了解を頂き、拳法の動きや、空手、キックボクシングの用語を参考に、新格闘技の技や動きの一つ一つを定義していった。同じ道場でずっと続けるのであれば良いが、会社員であればいつ転勤するか判らず、転勤先で少林寺拳法の道場に通う事は考えていなかった為、独立して新格闘技支部として人を集め、教えて行くためには、ノウハウを記述したマニュアルの作成は重要であり、早急にまとめる必要があった。

整理する中で、しゃれた言い回しや、技のネーミング等をしていたが、その名称や論理的につなぎ合わせられた動きや技が一人歩きすることが度々だった。

あるべき論で、体系化すると、本来そんな動きを教える中でやってもいない事をつい記述してしまうのだ。これには困惑した。自分ではできているつもりでも、S先生とは違っていたり。S先生の体の捌きやバランスのとり方など、言葉にしにくいものも多かった。

様々な参考になる本を読んでみて、適切でできるだけ普通に使う言葉を使いながら、少林寺拳法で「小手投げ」と言えばそこら派生する技も同じ原理を使っているため、なんとなくコツのイメージが沸くが、それにS先生流の再構築を加えて行くのは楽な仕事ではなかった。結局2年ほどかかった記憶がある。

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完成したベーシックマニュアル

時間を掛けたが、以下のようにまとめほぼ網羅できた。

第一章 新格闘技の意義

第二章 武道の歴史
第三章 基本動~技術編

第四章 応用編

第五章 手合い(自由組手)~技術編

第六章 年齢に応じたトレーニングと修行(指導編)

第七章 初心者の練習(指導編)

第八章 けがの予防と応急処置

第九章 昇給昇格試験(指導編)

第十章 組織体系(組織編)

と初心者指導から、普段のトレーニング、けがの予防から、応急処置、昇格試験、組織体系と、運用方法、月謝体系などで、これで個別道場を運用できることを想定したものだった。

虫の知らせか、完成から程なく転勤となり東京に赴任することになり、自らこのマニュアルを実践する事になった。

格闘技と武道と趣味vol4~青春時代~

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《大学生活は部活とバイトが中心》

大学生活はサークル・部活動をしているとどうしても、部活動が中心になってしまう。授業が優先だろうと言うのは学部によって当然であるが、商学部経済学科と言う文化系当時は、今どきのIT活用やMBA(経営学修士:Master of Business Administration)を目指すと言う流行りも無く。予備知識も無く、目標を定めにくい講義内容であったりして、単位を取る為の履修科目の選択だった。つまり、熱が入るものでは無かったので、中心が部活動とバイトになるのは致し方無かった。

少林寺拳法は格闘技でもやっていける》

少林寺拳法の魅力は強さを求めるものでは無いと伝えたが、逆に、強くない武道は本当に格闘技か、どこまでやっても他の格闘技には勝てないのか?と言う素朴な疑問がは常にあり、部活先輩にも同じジレンマがあったようで、日々の練習は勝てる技と負けないディフェンスを追求する鍛錬だった。

そういう練習だから、結構ハードだったが、少林寺拳法独特の思想的な教育はそこそこに、技の研鑽と年一回の関東国公立大会に向けての練習の日々で、この大会では、「演武」(個人と団体)と「乱取」(個人)の競技だった。

ある先輩はキックボクシングのジムにも通い、ある先輩は極真空手に出稽古にも出かけた。そこで、少林寺拳法にない動きや、技を習得すると、積極的に後輩に教え、お互いに実際にどの程度使えるかを道場の練習で試したりもした。

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格闘技ジム

《格闘技なら強くなければならない》

「強くなる」とはどう言う事か、この問いはとてもシンプルだが、非常に難し。

格闘技で言うところの強さは、相手を制することである。但し、ルールにより、防御、攻撃方法は全く変わる。総合格闘技と言うカテゴリーは昨今創出されたものであるが、アメリカで生まれたUFC(Ultimate Fighting Championship)はある意味究極のカタチであろう。アメリカ人らしいなんでもあり、残虐ショーギリギリのところだ。しかし、何でもありとなると、戦いは原始的に身体能力の高さ、打たれ強さ、巨漢の要素が高い者が強いに決まっている。

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UFCオクタゴンリング

極真では寸止め空手は真の打撃では無いとして、顔面以外の打撃、急所攻撃を除きほぼノールールの体重制いわゆるフルコンタクト空手を主張して、今やNO1の競技人口を誇る空手となった。しかし、これも顔面攻撃無し自体に穴がある。

《科学的に進化する格闘技》

現在の総合格闘技では、かなりの科学的分析がなされていて、それぞれのファイティングスタイルを打撃系(ストライカー)と寝技系(グラップラー)に分けたうえで、相手との間合い(距離)をそれぞれ有利な距離に保つ事で適切な攻撃と防御をする様に組み立ている。まさに総合的にトレーニングし技術を磨くのである。

《強さはルールで決まる》

勝敗はどこまで許すのかがポイントであるが、結局ルールによって、戦い方が全く変わって来る。よって、どの格闘技が一番強いか等と言うのは愚問である事が判る。私見であるがルール無しで戦えば、一番強いのは相撲だと思う。良く相撲取りがプロレスに転身しても大成しないと言うが(日本プロレスの祖力道山は相撲出身であるが、力道山はプロレスラーになった時点で相撲を捨てていた)、相手に与えるダメージは打撃の強さは物理の法則上質量とスピードであるし、数倍の重量で抑えられたら身動きできない。

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相撲

だからと言って、相撲取りになりたいと思ったことは無い。

《極めた格闘技は美しい》

磨き抜かれた格闘技の動きには美しさがあります。太極拳の流れる様な所作には老若男女問わず、習得できる動きであり、格闘技の一つの昇華したものの一つだと思う。鍛えるべき動き、重心移動、バランス等、競技するものを魅了する。

話は脱線したが、大学時代の少林寺拳法の修行は結局どうだったかと言うと、決して格闘技として極真などに劣るものでは無いと言う信念から、様々な格闘技から良いところや動きを取り入れて、それを少林寺拳法に取り込もうとしたのだ。

《不完全燃焼の少林寺拳法

しかし、少林寺拳法でそれを試す場は、「乱取り」と言う空手で言うところの自由組手となる。これがちょっと頂けない代物なのだ。怪我を防ぐため、フルフェイス面と拳サポーターに剣道の胴と脛にもサポータと言うフル防御状態で、ジャッジが間に立つが、決まりては「当て止めの上段突き」や、胴への「当たりの良い蹴り」とかになるのだ。つまり、審判次第でどうとでもジャッジが出来てしまうし、これだけ防御していると、効いているかどうかも判らない。効かない突きや蹴りが有効なのか?しかもとても打撃としては効果的な肘による攻撃やローキック等も反則となる。こんな競技でも、当時は勝つために、研究して勝てる練習をしたものだ。しかし、フレストレーションは溜まる。こんな練習していて本当の格闘技なのか?この疑問は徐々に蓄積された。

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少林寺拳法乱取り

それでも大学では、引退する四年生になっても部活に通い練習した。年に一度、本山合宿として四国の多度津に行っていたが、四年の春合宿で四段まで取得して区切りとした。

《就職しても少林寺拳法から離れられない残尿感》

就職して、最初の赴任地は札幌だった。最初から縁もゆかりもないところとになるとは驚いたが、行ってみると札幌は悪い印象も無く、むしろ人の温かみをとても感じ、なかなか住みやすいところだった。営業配属で、道央、道東地区を担当し、網走・旭川などが担当エリアだった。営業車で移動する中、少林寺拳法の看板を見かけるにつけて、こんなところにも道場があるんだと感心したものだ。

早速住宅近隣で道場を探すと、白石区内に白石道院と言うところがあり、赴任した夏から通い始めたが、大人も少なく、フルコンタクトを大学で磨いてきただけに、通う意欲が無くなった。

年末に突然転勤辞令が出て、今度は九州福岡に赴任することとなった。短い間で、まだ社会人営業としては半人前だったが、そこで武道・格闘技人生の大きな転機となる道場と出会う事になった。

《本物は西から来る》

九州だからと言う事ではないが、札幌は東京から離れていて、島国で色んな部分で距離感を感じた。しかし、福岡は東京から北海道並みに離れているが、その間に広島、大阪、名古屋と大きな都市圏があり、歴史も関東地区より古い。

その為か、武道に関しても少林寺拳法の亜種である「少林拳」の本部があったり、古武道があったりと、とても刺激的だった。

そこで、また少林寺拳法の道院を探すと幾つかあり、住居とした大濠公園近くマンションから車で20分くらいのところに行ってみた。道院長は背は大きくないが、眼光の鋭い小太りな方だったが、少林寺拳法を極める為、脱サラして、自費で道場を建てたというから、ホンマモンだった。

そんな人がどうして少林寺なんだろうと疑問を感じたが、技量的には今まで接してきた指導者の中ではNO1の実力だった。大学でキックボクシングや空手の動きを吸収してきて、フルコンタクト系には自信があったが、まったく歯が立たなかった。フルコンどころか、”乱取り”形式でやっても一撃で撃沈である。一つ一つの打撃の正確性や、回転技のキレ味は、次元が違う気がした。

当然、迷うことなく通う事となり、仕事上営業は定時で帰宅は難しいが、道場の練習を最優先した。週2回、年少の子供の練習が7時に始まり、一般人の練習は8時からだったが、会社を7時に出て、大急ぎで8時半に道場に着き12時近くまで練習する生活が10年近く続いた。とても充実していた。その間結婚もし、子供もできたが、生活のベースに道場があった。